大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

岡山地方裁判所 昭和41年(わ)348号 判決

被告人 景山司

主文

被告人を懲役一二年に処する。

未決勾留日数中五五〇日を右刑に算入する。

本件公訴事実中河原和子に対する殺人の点につき被告人は無罪。

理由

(犯罪に経るまでの経緯)

被告人は昭和三五年六月ごろ中国土木株式会社のブルトーザー運転手として笠岡里庄間の国道二号線の道路建設工事に従事中、右工事現場付近に畑仕事に来ていた山下智恵子と言葉を交わすうちに親しくなり、やがて肉体関係をするまでに至つた。

同女は、寡婦で、先夫山下克己との間に生れた長女光子と岡山県浅口郡里庄町大字里見字松尾四、四二〇番地に住んでいたが、そのころ同女の家には同女の父山下蕃造が一緒に生活していたし勤めの関係もあつて被告人は同女の家に同棲するのをちゆうちよしていたが、右山下蕃造も死に、勤務先も同女の懇請により広島県福山市笠岡町本通りの桑田装飾店に変わつたため、昭和三六年一〇月ころから右住所地で同棲するに至つた。

同棲後は同女の夫として経済的援助はしたが、同女が被告人以外の男性とも関係を続けていたため、嫉妬による痴話喧嘩が絶えず度々程度の過ぎた粗暴行為のため同女に傷害を与えたり、中国土木に勤めていたころ盗んで持つていたダイナマイトで同女を脅かしたりしたことから警察沙汰になつたりした。

昭和三九年一一月ころ被告人は自家用飛行機の操縦免許がとりたくなり、同女の了解を得たうえ、今までの勤めを止め、被告人の妹の紹介で、藤沢市へ出かけ、葵工業へ就職したが仕事の余暇に飛行機の操縦を習おうにも仕事に追われ所期の目的を仲々遂げられず、免許の取得を半ばあきらめていたところ、同女から帰つてくれとの電報をもらつたのを期に翌四〇年三月始めには、再び同女のもとへ帰つた。

同女と同棲生活をまたもとのとおり始めた同年五月同女が婦人科の病気の手術のため笠岡市の笠岡市民病院に入院するに及び、被告人はその間一週間ほど病室に寝泊りして熱心に同女の看病をした。

同女が退院後再び被告人は前記桑田装飾店へ勤めることになつたが、同女と同棲していると喧嘩が絶えず、また同女の体がまだ癒えておらないのに肉体関係に及ぶのは悪く、入院費で金を使いはたしたので残業してでも金をよけいにもらおうという気持になり、藤沢市に行く前も短期間前記桑田商店の福山市入舟町一丁目六の七号にある倉庫に寝泊りしていた関係もあつて同所に住込むことになつた。

住込後、被告人は三日に一度あるいは一週間に一度ほど、同女の家に帰り、月末には給料を持つて行つていたが、被告人が帰る度同女のところへ男の客があつたような跡があり、又被告人が早い時間に戻つたとき、同女が他の男と親しげに話しているのを立聞きしたりして被告人は、同女が浮気をしているのではないかと疑念を持ち嫉妬にかられて、同女に暴行を加えた、一方同女の方も気丈に被告人に対しあんたのような男は嫌いとか前の男の方がよいとか言つて遠慮ない言葉を浴びせた。

一方長女光子は笠岡市の淳和高校に入学し、同女の家から汽車で通学していたが、昭和四〇年八月高校三年の夏休みに、被告人の前記住込先に行つた。被告人は光子の成熟した姿に劣情を抱き光子に肉体関係を求めたり、ペツテイングをするまでに至つたが、光子は高校を卒業するまではと言い逃れて被告人のところへ数回泊つたものの被告人からの肉体関係をすることの要求を拒み続けた。

この二人の関係を薄々気付いた智恵子は、光子を被告人から遠ざけようと、被告人に内密にして、同女の叔母阿藤千代美と相談のうえ、阿藤の世話で、光子の高校卒業と同時に昭和四一年三月一三日大阪市門真市大本化粧品店に就職させ住込ませた。

昭和四一年三月一四日夕方、同女の家に帰つた被告人は光子の居ないのに気付き、同女に光子の居所を尋ねたが玉島に行つていると漠然と言われただけで行く先は分らなかつた。

同月二二日午後六時一〇分過ぎころ、福山市から同女宅に帰る際、被告人は同女の田圃が宅地にするために埋立られているのを見て昭和四一年初頃に土地売買の交渉があつたことを思い出し同女が自分に内緒で土地を売つたことを知り、光子の居所の分らない状態で自分が何かのけ者にされているような疎外感を抱き、光子の住所を知ろうと、前記阿藤を、鴨方駅前の公衆電話を利用して呼び出し、「金光の者ですが」と身分を隠して、阿藤から光子が大阪の大本化粧品店に勤めていることを聞き出した。

その夜同女のところへ泊つた被告人は、同女が寝た後同女のスカーフをまいた首にキスマークらしきものを認め、自分の留守に他の男と関係を結んでいるのではないかと、強い疑念にかられた翌日ころ福山市で電話局から光子の勤め先の電話番号と住所を聞き出すや、早速大本化粧品店へ電話をかけ、光子を呼び出し会いに行くと申し伝え、同月二六日再び電話をかけて会う場所などを打ち合せたうえ同月二八日午前一一時半頃、光子と大阪駅で会いタクシーに乗り、前記のように以前光子から卒業するまで関係を待つてほしいと言われていたため、光子をホテルのロビーでも行こうと誘つたが光子はこれに応じないで、途中タクシーから降りてしまう有様で被告人の意に添わず、当日は単に二人で大阪駅地下街や百貨店を歩いたのみであつた。その際被告人は光子に対し「お母さんは田圃を売つたが外に男が出来たんか」などと尋ねたが光子はこれに対し「知らん」と答えた。被告人は同日午後五時ころ目的を何等達せないまま光子と大阪駅で別れた。

昭和四一年三月二九日午後八時ころ、前記同女方に給料を持つて桑田商店の原付自転車カブ五五ccで帰つた被告人は、同女から光子のことで「何んで叔母に電話したん」などと詰問され、同女に「何もかもおばに聞いてもらつてことのよしあしを決めてもらおう」ときめつけられ、被告人自身も、同女が内緒で田圃を売つたことや、何の相談もなく光子を就職させたこと、同女に男があるような素振りが見えることなどで自分にも十分言い分があるのでこれを聞いてもらおうという気になり同家裏口の外の水道のところで同女の着替えを待つた。同女は裏戸から錠をかけて出て来て先に立つて急ぎ足で普段鴨方方面に出るとき利用する北側の裏道を、前記浅口郡鴨方町大字六条院の阿藤千代美方へ伺い、被告人も同女に続いた。

(罪となるべき事実)

被告人は、同日午後八時三〇分ころ、同郡里庄町大字里見四、七七八番地所在通称山王池の西方約一〇〇メートル付近にある殿迫部落と松尾部落に通ずる道路の交叉する三叉路付近に於て、先を急ぎ足で歩るく同女に追いついた際、再び同女から「どう言う訳で阿藤に電話をして光子のところを聞いたりしたん」と怒鳴られ歩きながら更に同女から「無理にあんたにおつてもらわんでもえゝけんわたしはわたしでするけん」とせつかく給料を持つて帰つてきたのに、それに感謝するどころかいかにも被告人に愛想をつかしたような言辞をされ、内緒で光子を就職させたり田圃を被告人に黙つて売つたことで極度に不満を感じ、これは他に男が出来ているからに違いないこの間のキスマークのことや、今まで金を取るだけ取つて、今更男が出来たけん出て行けとは何事ならと思うと極度に同女に憎悪を抱き、同女の服を右手につかんで立ち止まらせ、前記山王池北西角付近において、同女に対し「ようぬかしあがつたなあ他に男が出来たと言うんか、それでわしに出て行けか、この間つけていたキスマークはどうしたんなら」などと言いながら両手で同女の襟首を締めつけたところ抵抗する同女に身を引かれてよろけ、共にもつれて土手の近くの池の中に落ち込み被告人より池の奥の方一メートル程行つた地点で胸部より上を出している同女と対峙し、同女が必死で被告人のジヤンパーの胸部辺りにしがみついているにもかかわらず同女の抵抗により増々昂じた激怒の余り突嗟にこんな奴死んでしまえと殺意を抱き同女のカーデガンの胸部のあたりを両手でつかみ上向きに同女を沈め、更に同女を水中で半転させてうつ向かせ、右肩及び首の左のあたりに手をかけ被告人の体重をかけて同女を三、四十秒間、そのまま押えつけ、もつて同女の呼吸を困難にさせ、その場で同女を溺死せしめたものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(有罪を認定した理由)

弁護人は被告人の自白調書は山下智恵子に対して殺意を抱いた時期ならびに殺害の方法につき取調の度に異なることを指摘し、被告人は山下智恵子殺害の動機なく山下智恵子の死は、同人がヒステリーを起こして自殺したためであると主張し、被告人も第一回公判期日に殺害の事実を認め、第二回公判期日にも何等異を唱えなかつたものではあるが第三回公判期日において、女がヒステリーを起こし「死んでやる」と言つて飛び込んだと言い助けようにも酒一合以上飲んでいたので助けられなかつた旨主張し(記録九一四丁)検証の際に具体的にその状況を説明し(当裁判所の検証調書記録九二一丁)爾後の公判期日においても右主張を維持している。

よつて右主張を中心に判断する。

(一)  山下智恵子の傷害部位について

医師三上芳雄作成の嘱託鑑定書(記録四一九丁)によると、山下智恵子の身体に存した傷害は前頸部、背部、左右上肢、左右下肢に散見され、就中、左耳介耳垂の下方に、左右に約〇、七センチメートル、幅約〇、二センチメートル大の淡き皮下出血一個、頤部の下方約九センチメートル稍左方に大豆大および蚕豆大の淡き皮下出血があり、右肩部内側部において粟粒大乃至米粒大表皮剥奪十数個の存在が認められ、

且つ左右前腕後面外側にいずれも粟粒大乃至小線条の淡き表皮剥奪多数の存在が認められる。しかして、右の各傷は山下智恵子の生前に生じたものであることは同鑑定書の記載によつて明らかであり、かかる多数の傷が吾人の通常の生活に際して生じるものとは考えられないから、それはおそらく本件死に際して生じたものと認められ、前掲実況見分調書ならびに検証調書から認められる道路ならびに池の状況から見て入水自殺したと仮定した場合前記部位に傷痕が付く可能性は稀有であると思料される。

(二)  山下智恵子の様相

山下智恵子は両腕をやや前に突き出した状態で死亡していたことが昭和四一年四月四日実況見分調書添付の写真三二、三三(記録四六四、五)によつて認められ、同女の両手指間には池底の土と思料される泥土が付着しているのが同写真三四ならびに土井彬堂作成の鑑定書(記録五八四丁)から認められる。

とすると山下智恵子が自殺したとするには、不自然な体位であり、指間の泥土が付着する可能性が少く、寧ろ上部からうつ向きに押えられてそれを池の底に手をついて拒む体勢であり、その際池底の泥土の中に指が入り、泥土が指間に付着したものと考えるのが相当である。

(三)  池の深さ

山下智恵子が溺死した通称山王池の深さは比較的浅く、西岸から東に向いて六メートルの地点で一、四三メートル、一〇メートルの地点で、一、八五メートルであり、死体の浮いていた地点は西岸から三、五メートル北岸から七、三メートルの地点で深さ約一、二メートルであること、また池の北西角の同女が転落した地点の深さは約八二センチメートル(記録四七七丁)であることとが昭和四一年四月四日付、及同月一四日付実況見分調書(記録四三三、四四三、四七七丁)によつて認められる。

これは、被告人が一合程度の酒を飲んでいたとしても容易に同女を救助することができる池の深さであるのみならず、長年この池の近所に住んでいた同女にとつて自殺する場所として不適切であると思料される。

以上の三点に加えて山下智恵子は金銭に執着心が強いうえ土地を売つた代金数十万円を有していること、自分から進んで被告人と別れようとし阿藤のおばさんのところへ行こうとしたこと、同女の性格は気丈であることなど、光子のことで興奮状態にあつたとしても自殺する程の動機は何等ないことを併せ考えると、被告人の自供をまつまでもなく、同女の死は他殺と認めるのが相当である。しかして、同女が死亡した頃同池付近において同女と行動を共にしていたのは被告人のみであること、同女殺害の被告人の自白は強制捜査に着手前になされていることならびに過去に些細なことで激昂し、しばしば同女に対し相当激しい暴行を振つたことから認められる被告人の性格と、前記認定のとおりの同女を殺害するに足る十分な動機を考えれば同女が自殺したとする被告人の弁解は措信しがたく、同女を殺害した旨の被告人の司法警察員および検察官に対する供述調書は右の点よりしても、十分信用しうるものと認められる。もつとも、被告人の自白内容に変遷のあることは弁護人の主張するとおりであるが、それは後記河原和子事件と関連せしめるため、その限度においてのみ変更されているものであつて、これをもつて右自白全体の信用性を疑わしめるものとは解しがたい。

本件についてはその証明は十分と云うべきである。

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法一九九条に該当するので所定刑中有期懲役刑を選択し、その刑期の範囲内で被告人を懲役一二年に処し同法二一条を適用して未決勾留日数中五五〇日を右刑に算人し、訴訟費用については刑事訴訟法一八一条一項但書を適用してこれを被告人に負担させない。

(本件公訴事実中昭和四一年五月一六日付起訴に係る部分についての当裁判所の判断-無罪の理由)

一、公訴事実の要旨

一 本件公訴事実の要旨は、

被告人は、昭和三一年六月頃、岡山県御津郡御津町紙工二五三七番地、農業河原和子(当時一七年)の婿養子となつたものであるところ、生来無口のうえ農業に不馴れのため、几帳面で口喧しい姑、河原多津与(当六七年)に気にいられず、日頃、妻和子を通じて種々苦情を言われ、また、部落の寄合いでは、養子と呼ばれて疎んぜられたことから、昭和三二年秋頃には生活に希望を失い厭世的となり悶々と暮すうち、昭和三三年一月一日午後三時三〇分頃、妻和子を自転車の荷台に乗せ、同郡建部町よりの帰途、同郡御津町大字紙工兵坂三〇三二番地付近の通称、兵坂奥の池に至つた際、自己の前途を悲観して投身自殺をしようと決心したが、その際、自己と姑との間で日夜苦悩している妻和子を残すことを不憫に思いむしろ同女を道連れにするにしかずと決意し、同女を同乗させたまま、同池に接した県道下り坂にさしかかるや、把持していたブレーキを離してそのまま被告人諸共自転車を同池南西隅に転落させて同女を同池に墜落させ、その直後同女が水面に浮き上つたため、両手で同女の両肩を押えて水中に沈め、呼吸を困難に陥れてその場で同女を溺死するに至らしめて殺害したものである。

というにある。(以下河原和子事件と呼ぶ場合は本件を指す)

二、緒論

前記認定の山下智恵子殺害事件と河原和子事件は、検察官が論告で指摘のとおり被告人と一定の身分関係すなわち内縁の妻と配偶者という関係にある女性が共に池で死亡しているという特異な事件である。前記認定のとおり当裁判所は山下智恵子殺害につき前掲証拠により被告人を有罪と認めた。しかしながら、河原和子事件(以下本件ともいう)は、後記のとおり、山下智恵子事件とは異り、被告人の供述以外にはいわゆる決め手とされる証拠がないと考えられるところ、その被告人の自白内容には疑問と考えられる点があつて、これを信用することができないので、結局犯罪の証明が十分でないとの結論に達した。以下においてはその理由を詳述することにする。

三、本件についての被告人の自白と否認

本件につき被告人は、警察および検察庁における捜査の段階において、前記公訴事実にそう、自白をしていたばかりではなく、昭和四一年六月三日に開かれた第一回公判期日には右公訴事実を認め、更に同月二七日に実施された本件現場検証の際にも、右自白にそう内容の現場指示ないしは供述をしていたのであるが、同年九月二六日に開かれた第三回公判にいたり、右自白を翻して犯行を否認し、以来一貫して否認の態度を持しているものである。しかして、被告人の右否認供述の内容の要旨は、「本件は、自己が妻和子を自転車の荷台に乗せて前記県道下り坂を下降中、その前輪が路面上の石に乗り上げ、安定を失つて和子もろとも池に転落した結果生起したものである」というのであつて、自己が和子の死と全く無関係であると主張しているのではなく、和子の死は、検察官主張のような方法で自己が故意にこれをしたのではなく、自己の自転車運転上の過失によつて同女を池に転落せしめた結果に過ぎないと主張するのである。

四、本件の特異性と証拠の稀薄性

ところで、本件は、前記公訴事実の記載によつて明らかなように、昭和三三年一月一日に発生した事件であつて、本件公訴の提起が昭和四一年五月一六日であるから、それまでにすでに八年四ケ月も経過していたことになる。もつとも、当時も刑事事件として捜査が進められたのであるが、それは過失致死被疑事件としてであつて、被告人は前記否認供述と同旨の過失を主張し、それを裏付けるに足る資料があつたためか、昭和三三年四月二八日、岡山地方検察庁において、過失致死事件として起訴猶予処分に付されていたものである。しかるに、その後にいたり、前記有罪の認定をした山下智恵子殺害事件が発生し、その被疑者として被告人を逮捕取調中、それと類似の事案である本件和子の死因に疑問を抱いた捜査当局において、本件を再起立件のうえ、被告人を追及した結果、前記のような自白をえたため、殺人罪として起訴されるにいたつたものである。

かようなわけで、本件についての当時の捜査記録は、五年の保存期間を経過した昭和三八年一二月一四日付をもつて廃棄処分に付されてすでになく、当裁判所が取り調べた証拠中当時のものとしては、わずかに医師河田謙二作成の死体検案書および司法巡査作成の実況見分調書の謄本が存在するのみであつて、本件が故意に惹起せしめられたのか過失によつて生起したのかの決め手となるべき物的証拠はもとよりのこと、犯行の目撃者もなく、他には再起立件後に作成された実況見分調書類および犯行の動機ないしは原因とされている事項や事件発生後にとつた被告人の行動において故意の犯行を推認させるような事情があつたと窺わせるような内容の関係人の供述ないしは供述調書が存在するに過ぎない。

しかして、右死体検案書は、これを作成した医師河田謙二の司法警察員に対する供述調書によると、本件当夜池の堤で村民の持参した提灯の明りでなした検案の結果を記載したもので、その方法は後記のとおりずさんなものと解せられるのではあるが、ともかくも死因は溺死であつて、死体に外傷その他特異な痕跡はなく、過失死であるとの意見が付されているものである。

又右実況見分調書の謄本および再起立件後の司法警察員作成の実況見分調書、裁判所の二度に亘る現場検証調書によると、本件の発生した場所は、後に詳述するように、検察官主張のような方法で和子を殺害することはもとより可能ではあるが、被告人の主張するような過程で転落死亡することも又ありうると考えられる場所であつて、現場の地形その他の条件が故意、過失の判断の決め手とはなりえないところである。更に右にみた犯行の動機や事件後の行動に関する事項等の関係者の供述についてみてみても、河原和子が池に落ちたことを聞いて、池に助けに赴いた河原正志の司法警察員に対する供述調書は昭和四一年四月一九日に第一回、同月二一日に第二回、検察官に対する供述調書は同年五月一一日に、被告人の乗つていた自転車を池から引き上げた川田克己の司法巡査に対する供述調書は、同年四月一九日に、同人の検察官に対する供述調書は同年五月一一日に、同じく自転車を引き上げた河田定也の司法巡査に対する供述調書は同年四月二〇日に、その他、小林明良、藤原堅、河原常代、河原智恵子、河原厳、二宮長士、河原吉子、的場弥一、河原多津与、川田市代、戸田亨、和田智恵野ら河原和子事件に関連のあるすべての参考人の供述調書は昭和四一年四月一九日以降に採取されており、被告人について山下智恵子殺害の報道があつた後であることは勿論、河原和子殺害につき自白があつたと新聞もしくはラジオ等で報道された日以降に取り調べを受けていることは被告人の河原和子殺害の自白調書の作成された日付が同年四月一九日であること(記録六一七丁)、及参考人の調書中にある各人の供述内容それ自体からも明らかである。かように右各供述者らは、八年もの前の出来事についての供述を求められたものであつて、そこには日時の経過による記憶の喪失という供述の正確性を疑わしめる要因が存在するのみではなく、それぞれ意識すると否とに拘わらず、本件および前記山下智恵子殺害の犯人が被告人であるという先入感をもつなど、記憶の再現および事実の評価に際して被告人の不利益にそれが変形される要因が多分に存したといわざるをえない。しかもそれらの内容は非常に間接的で想像ないしは伝聞に亘るものが多く右各供述によつても、本件が被告人の故意に惹起せしめたものであることを認めるのには十分でないのである。

五、本件における被告人の供述の重要性

右に述べたところによりすでに明らかなように、被告人の供述なくしては、本件が故意による犯行か過失による事故かを断定しがたいのであるが、その被告人の供述にして前記のように相異るものがあり、しかも事件後自白まで八年余も経過し、兇器等の証拠物は何等なく犯行の目撃者もいない状態に於てはその真偽の判定には慎重にならざるをえないのであつて、この意味で前記故意犯行を認める自白内容の真実性については十分の吟味を必要とするといわざるをえない。

六、被告人の自白についての検討

(一)  犯行の動機ないしは原因についての疑点

本件につき被告人の自供する殺人の態様はいわゆる妻和子との無理心中である。従つて、犯行の動機ないしは原因としては、(イ)、被告人を自殺に追い込むだけの事情があつたかどうか、(ロ)、自殺を決意したとして妻和子を死の道連れにするだけの理由があつたかどうか、の二点を検討しなければならない。

まず、右(イ)について被告人の自供調書に記載されているところを要約整理してみると、(a)自己が義母の多津与に気に入られず、同女につらく当られ、妻和子を通じて悪口を聞かされる上、和子からは板ばさみになつてつらいと云われていたこと、(b)、青年団や消防の人達から寄り合などの際非難され、又養子といつてはさげすまれ、つき合いが悪いといつて嫌味をいわれたりなどしたこと、(c)、養家先では慣れぬ百姓仕事のことで仕事がつらいばかりである上、娯楽はなく、将来に希望を持てなかつたこと、(d)、実家に帰ろうとしても両親から辛抱せえと云われて帰るに帰れなかつたことなどである。しかして、右のような事実の存したことは、取調済の関係者の供述調書などによつて一応認められるところであり、ことに右(a)の義母との間の家庭内での軋轢が相当高度であつたと考えられるので、それらの諸事情が自殺の原因となりうるものであることは否定できない。しかしながら、右のような事実が存在し、それを被告人が気にやんでいたとしても、自己を自殺に追い込むほど深刻に考えていたかどうかについては更に検討を要するところである。すなわち、被告人の前記自供調書には、前記のような諸事情によつて、自己が前途を悲観して世をはかなみ自殺を決意するに至つた事情が縷縷記載されてはいるが、その裏付けともいうべき被告人のかかる心情を推認させるような言動としては、わずかに被告人が本件前に「死にたい」という趣旨の書面を残して仕事に出ていたことがあつたこと、およびそのことについて話し合つた際首にひもをかけて自殺するような格好をしたことがあつたという事実が認められるのみである。しかして、かかる行動が真実自殺を考えているもののなすものであるかは疑わしいばかりでなく、その時期についての関係人の供述は区々であつて、「和子の妊娠前」(河原多津与の検察官調書-二四二丁)とか「昭和三二年秋頃を過ぎて寒い頃」(戸田亨の検察官調書三一五丁)とか「妊娠していた後のこと」(河原多津与の検察官調書二六七丁)とかに分れているのであるが、ともかくも、右の事件後一旦実家に帰つた被告人は、仲人や家族にさとされて翻意して養家に帰り、従前どおり仕事についていたのである。そして、その後本件発生までの被告人の言動について、最も身近かにいた河原多津与の供述などによつてみてみても、なるほど被告人が寡黙で家庭内の空気は重苦しかつたようではあるが、それとても従前と特に変つた異常なものではなく、被告人に自殺を窺わせるような言動は認められないのである。このことは、本件発生の直後において被告人の日常の行動を知る付近の人達が、被告人のみが生き残つたことにつきやや不審を抱いたとはいうものの、一様に過失で死なせたとの被告人の云い分を信用したことよりしても明らかと思われる。かように、本件発生前日までの被告人には自殺を窺わせるような特異な言動はなかつたと云わなければならない。

ところで、本件は、正月の元日の午後、かねてより計画していたとはいえ、やがて生れ出る我が子と妻のために、阿弥陀様への安産のお祈りに行つての帰途実行されたことになつている。前記河原多津与の供述によると、被告人が和子と共に出かけた際特に異常な点はなく、又本件発生の約三、四〇分前、建部町において被告人夫婦は養子縁組の仲人役戸田亨と出会つているのであるが、同人の供述および供述調書によつても、その際の被告人に特に平素と異つた言動があつたとは認めがたい。しかも被告人ら二人は、義母に対する土産物として煎餅まで買い求めていた事実が認められるのである。かような事情のもとにおいて、いかに厳寒時の山中において、青黒く深そうな池水の様相にみせられたとはいえ、突如として自殺、ことに妻との無理心中の実行を決意したとするには、あまりにも唐突であると考えざるをえない。果して右実行を決意するに至つたその時点に関する被告人の自供調書の内容は、昭和四一年四月一九日付の司法警察員に対する供述調書においては既に阿弥陀様へ行くとき奥の池の土堤へ上つた時に生じた旨記載されており(記録六二九丁)同調書にはその後被告人が「あの学校はわしが行つていた学校じやな」と思い出したり「学校へ通うのに汽車に乗りたくてたまらなかつたな」と思いこれからまもなく死ぬ自分の、幼少の頃を想い出した様子が記載されるなどいかにも前記決意の真実性を裏付けているようであるが、その一週間後の二六日付司法警察員の調書には阿弥陀様からの帰途転落した地点から数一〇メートルの手前で無理心中の決意を抱いたことになつているなど重要な点において極めて大きな変遷がみられるのである。もつとも二六日付の調書には一九日付の調書と非常に異なる点につき和子のことと智恵子のことがこんがらがつて順序よく話ができず、又現場の話になるとむごい池の中の様子が自分の良心を苦しめたためにことわりをしにくかつた(記録六六六丁)旨の被告人の弁解があるがこの事情で供述を変えた、とはにわかに措信しがたく一九日付調書の記載(記録六三九丁)は、戸田亨と被告人らが阿弥陀様よりの帰り道に会つたことや、煎餅を母多津与のために買つた事実が関係人の取調が進むにつれて分つてきたことから、犯意の時期のとられ方として無理があると分つてきたため取調官の誘導によつて変えたのではないかと推測され、その決意自体の存在すら疑わしいといわざるをえない。

又このことは、和子と共に水中に転落直後の被告人の行動をみてみるとより一層明白となると思われる。すなわち、被告人の自供調書によれば、被告人は水中に転落後自己の上に自転車がおおいかぶさつてくるように感じて、急いでそれをはらいのけて浮上し、同じく浮上した和子を認めてこれに近付き、同女を押し沈めて共に水中に没したが、その後息苦しさを感じて再び浮上した旨述べている。これが果して、そのわずか一〇数秒前に死を決意し、同死の相手を死にいたした直後の者のとる行動であろうか、自殺の意図が他人の救助などによつて遂げられなかつたのならばともかく、わずかに水をひと飲みするだけで自己の意図が実現できるのに、これをあえてしないで、生への執着を有するような行動をとつたことを内容とする被告人の供述は、被告人が自殺ないしは無理心中の決意を有していた旨の供述の真実性を疑わしめるものと解さざるをえない。

次に、前記(ロ)の妻和子を自殺の道連れにするだけの理由があつたかどうかの点について検討する。

この点に関する被告人の自供調書の内容は、各調書によつて幾分の差異が認められるのであるが、最終的に被告人の供述を整理したともみられる検察官に対する昭和四一年五月二日付供述調書によつてそれをみてみると、「和子を道ずれにすることは悪いが、和子も板ばさみでつらい思いをしているから自分と一緒に死んでしまえばつらい思いをせんでもすむ、その方が和子にとつても幸せかもしれん」という内容のものであつて、検察官が公訴事実中にその理由としてあげている「自己と姑との間で日夜苦悩している妻和子を残すことを不憫に思い」というのも、被告人の右供述を要約したものと思われる。

ところで、被告人と妻和子との夫婦仲が良かつたことは、第七回公判調書中の証人河原多津与の供述部分ならびに証人戸田亨および被告人当公判廷における供述によつてこれを認めることができる。被告人がその姑多津与に対するのと同様の感情をその子和子に対して抱いていたことを窺わせる証拠はなく、従つて、自己の自殺の道連れに和子を殺害すること以外に被告人には和子殺害の動機はなかつたと考えられる。

しかして、

自殺を決意した者が、自己の最愛の者をこの世に残すのを不憫に思うなどしてその道連れにしようとすることは、いわゆる無理心中未遂事件の裁判上しばしば経験するところである。従つて、被告人が妻和子を自己の自殺の道連れにしようとしたとする供述そのものには疑問はない。しかしながら、被告人が供述し検察官が主張する前記理由で妻和子を道連れにしようとしたとするには疑問の存するところである。すなわち、被告人は、河原家の養子となつた者であつて、妻和子は養家の娘である。被告人が本件前実家に帰りたいと申し、一時実家に一人で帰つたことがあることよりしても、妻和子を残しておくことにはさほど不安を感じなかつたのではなかろうか。ことに姑多津与との問題は、主として被告人の存在によつて生じている事柄である。被告人がこの問題を解決し、家庭内の円満を計り、妻和子の精神的負担を和らげようとして積極的な努力をした形跡は認めがたい。死の道連れにする程同女の立場を不憫に思うのであれば、本件以前に今少し解決のための努力をしたのではなかろうか。こと姑との問題に関する限り、被告人がいなくなることにより更に和子が板ばさみになつて苦しむことはないのであるから、その苦しみを和らげるためむしろ死の道連れにしようとしたとする被告人の右供述は納得しがたく、真実かかる心境に立ちいたつた者の供述とは解しがたいのである。

かように、本件犯行の動機ないし原因として被告人の供述する内容は、犯行の動機として一応成り立ちうるとしても、それは極めて薄弱であり、被告人に無理心中をしなければならない程の動機があつたとするには疑問が存するのである。

(二)  犯行時の状況に関する自供の疑点

被告人の妻和子を殺害した際の模様についての自供内容は次のとおりである。

昭和四一年四月一九日付司法警察員に対する供述の調書には「池の南角のあたりへ来たとき、下り坂を降りている勢いのまま自転車に乗つた私と和子は道から一米下にある水中に飛び込んだのです。そして、私より池の中心の方へ約一米位離れたところへ首から上を水の上にのぞかした和子のそばへひとかきして近付き、私の両手を和子の両肩へかけた、二人の体は垂直で両手には余り力を入れなかつた、そのまま水中へ引き込まれるように沈んで行つた、その時の私と和子は相対して真直ぐな姿勢であつた、和子の顔が水中にかくれた時「ブクブク」と音がした、いつの間にか私の両手から和子が離れていた」との記載があり、

同月二六日付の司法警察員に対する供述調書には、「飛び込んだ一〇米位手前から自転車のブレーキを離して勢をつけた、飛び込んだ時急にハンドルを池の方に廻したのではなく、一〇米位手前から飛び込んだところまで徐々に池の方へハンドルをとつて行つた。他へ落ちて後、私の浮いている所から力一杯右腕を伸ばし、左手でちよつと水をかいて、首から上を出している和子の直ぐ前へ向いあつて立ち、直ぐ両手を和子の両肩へかけて私の体重を和子にかけて、私の両腕と体重で和子を水中へ約三米位沈めた、和子の両肩に両手をかけて押し沈めようとした時、和子は「何をするんならお父ちやん」と力の抜けるような声で云つた。そして、両方の手をバタつかせて沈まないようにしていたが、ブクブクと泡をふきながら沈みかけると、和子は両手で私の腰を握つてきた。しかし、私は手をゆるめずにいると、約三、四〇秒くらいして、和子は私の腰から手を離し、水の底へ吸い込まれるように沈んでいつた」との旨の記載があり、

昭和四一年五月二日付検察官に対する供述調書もほぼ右と同内容であつて、ただ和子が両手をバタつかせて沈まないようにしていた旨の記載がない。

このようにして、被告人が和子を殺害した時の模様についての自供内容には和子の発言内容やその態度など重要な点に変遷が認められ、そのこと自体供述の信用性を疑わしめる事由となりうるものであるが、ともかくも、右によつてみれば、自転車諸共水中に転落した和子が、一旦浮上し、これを押し沈めようとした際「何するんならお父ちやん」と云う発言をしたこと、しかし、これをおして水中に沈めようとした被告人の所為に対しては抵抗らしいことをした形跡がなかつたことがその内容となつている。

ところで、前記医師河田謙二作成の死体検案書によると、和子の死因は溺死とされているのであるから、右自供内容中和子が一旦浮上し被告人に対し「何するんならお父ちやん」と発言したことは、右死因に一応合致したものということができる。もつとも、右死体検案書ならびに同人の司法警察員に対する供述調書によると死体の検案は前述したとおり、部落の人の提燈の明りの下にわずか三〇分足らずの時間に行なわれており、胸部を打診したところ濁音を呈したことから直ちに溺死と断定している。この点和子の死体を目撃した人々が「和子は余り水を飲んでいなかつたからシヨツク死を起こしたのでないかと話していた」旨の河原吉子の供述(記録二一三丁)、死体を検案した河田謙二医師は警察から「溺死があつたので」と連絡され、池で死亡した事実と合せ溺死の先入感を抱いて検案したのではないかと考えられること、死体はかなり池の中央の深いところに沈んでいてそれを万鍬によつて上げる(小林明良の司法巡査に対する供述調書記録一四五丁以下)際胸部を圧していた水圧が弱くなり胸部が拡大する際に水が胸部に入り込むことも考えられ、多少濁音を呈したからと言つて溺死であると断定するには問題がある。そして、仮に心臓麻痺とすれば、被告人の「何するんならお父ちやん」と和子が言つたという供述、ならびに和子が腰をつかんで沈んでいつた状況についての自白はおかしいことになる。しかし、通常の場合は溺死が多く、又医師も溺死であると断定しているので、当裁判所に顕出された証拠から、これを覆すことは難しいと思われるが、

それはともかくとして、本件が溺死であるとしても、和子が泳げたことについては河原一義の司法警察員に対する供述調書(記録三五〇丁)及河原多津与の検察官に対する供述調書(記録二四三丁)より明らかであり、又被告人の自供によると両手を和子の肩へかけたとき和子から「何をするんならお父ちやん」と言われたとされている。もし、それが事実なら和子は被告人の故意に転落したこと及びこれからしようとする行動を察知していたと解すべきであつて当然それをされまいとして激しく抵抗したことが想像される。

しかるに、この点昭和四一年四月二六日付調書には手を「バタ」つかせて沈まないようにしていたとあり、同年五月二日付調書ではその旨の記載なく両手で私の腰のあたりを掴んでいたと記載されているのみである。

このように、水泳の心得のある和子が死にのぞんで何らの抵抗をすることなく、易々として被告人の腰をつかんだままの状態で、被告人のなすがままに水中に没するということが通常あり得るであろうか右自供内容は吾人の経験に照して極めて疑わしいと言わなければならない。

(三)  本件には虚偽自白をする誘因があつたと考えられること、

右にみたように、本件の被告人の自供内容には、その犯行の動機ないし原因に関する部分において、はた又犯行時の状況に関する部分において、いずれも吾人の経験に反する点が認められ、自供内容の真実性に疑を抱かざるをえない点が存するのであるが、更にこれを裏付けるように被告人には本件につき虚偽の自白をする誘因があつたと考えられる事実が認められるのである。すなわち、本件の捜査は前示山下智恵子事件の捜査が一段落した後に始まつているのであるが、被告人を最初から最後まで取調べた伊賀常市巡査部長の証言によると被告人が進んで河原和子の事件の自白をしたのではなく自分達の内偵した結果に基いて被告人に尋ねたため被告人が自白した旨述べ(第五回公判調書中同人の供述部分記録九五二丁)近所の人達の話を聞いて疑いをもつた、それは池に落ちて直接自分の家に言うて帰らずに何か近所のうちに言うて帰つたことである旨述べている。ところが前記のとおり、伊賀部長の言う近所の人達の調書の作成の日付はいずれも被告人が河原和子殺害を自白した昭和四一年四月一九日以降になつている。

又内偵したといつても前記のとおり被告人が故意に河原和子を殺害したと推認するに足りる決定的な証拠はないのであるから、いかなる証拠をもつて被告人を追求していつたか、疑問を有せざるを得ない。

この間の消息を知る一つの示唆として次の山下智恵子事件に関する調書上の差異を挙げることができよう。すなわち、

昭和四一年三月三〇日付司法警察員伊賀常市に対する供述調書では殺意の時期は、水の中から智恵子が上ろうとバタバタして被告人の体にさばりつくようにしてきた時(記録一、二四五丁)、同年四月一一日の調書でも池の中で智恵子が被告人にしがみついてきたとき(記録七七七丁)、同月八日の調書では池の側を歩いて肩を並べていた時(記録七九三丁)であり、同月一二日付妻鹿整警部に対する供述調書では池の堤防の上にいる時(記録八三五丁)、同月一四日付の被告人の供述調書では池に落ちる手前の時(記録八六〇丁)、又四月一五日付の検察官に対する供述調書では池のほとりのあたりを歩いていた時(記録八八八丁)となつている。これらは四月一九日付の被告人の河原和子殺害の自白調書より前の日付である。

ところが四月二三日付の妻鹿警部の調書では、智恵子の家の勝手口へ出て女が出てくるのを待つているときに殺害の意思を抱くと共に和子を殺したことを思い出して、この時の殺害方法を利用しようと考えている旨(記録八六四丁-五)記載され、又同年五月九日付検察官に対する供述調書(記録七一三丁以下)では智恵子の家の勝手口の水道のところで二分位智恵子を侍つているとき殺意を抱き(記録七一五丁)和子のことを思い出して池で殺そうという気になつた旨(記録七一六丁)記載されている。

この差異により同年四月一九日の被告人の河原和子殺害の自白を境として河原和子の事件がたくみに山下智恵子事件に取り入れられていると認められるだけでなく今度は逆に山下智恵子の事件をもつて河原和子事件就中その故意の点を推測せしめるための作為と思料せられるきらいがあるし、少くとも捜査の方針として両事件が密接なつながりを持つたものとして取扱われていることを推測せしめる。事実被告人も、両事件を混同して考えていたことが被告人の妻鹿警部に対する昭和四一年四月二六日付供述調書に記載されている。(記録六六五丁)とすると河原和子事件について、被告人を追求して行つた一番の資料は山下智恵子事件に於ける被告人の自白すなわち同女を被告人が殺したということであると考えざるをえない。

被告人は山下智恵子事件について当初参考人として任意出頭を求められた際、嘘をつき、これを追求せられて自白するに至つている事実は昭和四一年三月三〇日付司法警察員作成の報告書(記録一、二〇三丁)から認められるが、当裁判所の認定した山下智恵子殺しの精神的負担を負い且つ当裁判所に提出された分のみでも三月三〇日、四月四日、五日、六日、七日、八日、一一日、一二日(二通)、一三日、一四日、一五日と連日に亘つて取調をうけたうえ、河原和子の死に対し、故意でなくても、被告人の行為は妻を助けえないで自己のみが生き残つたとの点において道義的、社会的な評価はまさに「殺した」という言葉が抵抗なくうけられるような内容のものであるから、和子事件についての一見不可解な被告人の犯行後の状況をもつて(記録六六一丁)その転落前ならびに転落時の状況を追求せられ、右のとおり山下智恵子事件の際に嘘をついたため被告人の弁疎に一顧も与えられないような状態で、被告人がどうともなれという気にかつて自供することはありえないことではないと考えられる。被告人のこれにそう供述は(第三回公判調書中被告人の供述部分記録九一四丁、被告人の当公判廷に於ける供述記録一、一三七丁)前記のとおり捜査の方針に迎合的に変化している。被告人の各供述調書を考慮すれば、あながち被告人の単なる言逃れとは言い切れないと考えられる。かくして、被告人には虚偽の自白をする誘因があつたと解すべきである。

七、検察官の主張する事実に対する当裁判所の見解

検察官は、本件が被告人の故意に惹起せしめた殺人事件であるとの主張を裏付ける事実として、次のことをあげている。すなわち、

まず第一は、有罪の認定をした山下智恵子事件と本件との手口が酷似していること、第二は、被告人が警察、検察庁においてのみならず裁判所においても自白していたこと、第三には、本件の現場が過つて自転車の転落するような場所ではないこと、ならびに被告人は落ちた状況を具体的に説明できないこと、第四は、自転車の転落位置は岸から三メートルも離れていて、過つて落ちたにしては岸から離れ過ぎていること、第五は河原和子は泳ぎが出来たから被告人が沈めなければ岸にたどりつけたと考えられること、第六は被告人の事件直後の行動が不自然であり、故意の犯行を窺わせること、第七は犯行をするに十分な動機があることを主張する。

そこで、以下順次右の諸点について当裁判所の判断を示すこととする。

(一)  手口の類似性について

山下智恵子事件と河原和子事件とは、両被害者が池で死んでいるという点は、確かに似ているが、公訴事実掲記の各動機をみると、一方が三角関係のもつれであり、他方が心中(自殺)という点で大きく異なるし、犯行の態様も一方は被告人ともつれ合つて転落したものであり、他方は自転車で坂道を降りる勢をかけて自転車ごと飛び込んだという点に於て異なつている。又山下智恵子事件と河原和子事件との間には八年以上の歳月の距りがあることは、前記のとおりである。

ところで、通常犯罪の同種手口が有罪証拠たりうるのは、前の犯行が確実であつて、後の犯行が不確実である場合であつて、手口に特殊性と習慣性が存し、両事件の間に時間的接着が認められる場合に限ると解すべきである。

けだし、現在同種の犯行がなされたとしても過去の時点に於ける際にはその経験が存したとは必ずしも言えないばかりか、過去になされて記憶せられた経験は現在に利用しうる可能性はあるが、その逆はまつたくありえないからであり、手口の特殊性と習慣性は人間の意思活動と行動様式に於て過去の経験の蓄積と利用として現出する特性に外ならず時間的接着は、過去に於ける経験によつて得られた知識が具体的状況に於て直ちに一定の行動様式となつて表われる時的限界を示すものであつて人間の想起能力に忘却という限界がある以上、時間的に接着していなければ、行為者の意思活動を推認することはできない。これを本件について考えてみると、前記のとおり新しい時点である 山下智恵子の事件の手口から認められる故意をもつて、それより過去の時点である河原和子殺害の故意を証することはできず、手口には何ら故意ならびに行為を証する特殊性、習慣性なく、又時間的にも八年間以上を経過しているのである。よつて河原和子事件の有罪を認定するため、すなわち故意行為を認定するために、山下智恵子事件を考慮に置くことはできないと考える。

(二)  公判廷でも自白していたとの点について

被告人が本件について第一回公判期日および本件第一回の現場検証の期日に犯行を自白していたことは前記のとおりである。しかして、警察、検察庁におけるいわば密室での取り調べではなく、公開のしかも弁護人も在廷する場所で犯行を自白していたことは、自白内容の信用性を高める要素となりうることは否定できない。しかしながら、被告人はこの点に関してその時はもう調書に書かれて全部認めておつたからどうすることもできないとそればかり思つていたわけですと供述している(同人の当公判廷における供述記録一、一六九丁)。又否認するに至つた直接の契機はPL教団の教悔師に真実を通せと説得されたため(記録一、一八四丁)と当公判廷において供述している。

この点について後者は被告人の心の中の問題であつて、教悔師の説諭がどの程度被告人の心裡に影響を与えたかは確定できないが、前記認定のとおり山下智恵子殺害については証拠上明らかであるのに、これをも当裁判所において否認したことは、単に刑罰をまぬがれる目的だけでなく少くとも被告人の脳裡に山下智恵子事件と河原和子事件が混然一体をなした事件として写つているためではないかと推認でき、そうとすれば、前記の河原和子の死に対する責任感ならびに山下智恵子殺害の精神的負担及び自白調書、供述書、録音テープで証拠を固められたことを十分に認識している被告人が、公判廷で自白し、弁護人に対しても敢えて否認しなかつたとしても、自白の内容が起訴状認否の程度であつて動機や池へ転落後の被告人の行動につき具体的詳細になされたものでない(第一回公判調書中被告人の供述部分)事実とも併せ考え、被告人の弁疏は河原和子の事件に限りあながち虚偽の心境として排斥さるべきものと言うことは出来ない。

(三)  転落場所について

次に検察官は、転落地点は過失で転落するような場所ではないと主張するが、当裁判所の二回に亘る検証の結果(記録六〇六丁以下及び一、〇九四丁以下)から運転操作もしくは速度が不適切であれば、転落する可能性は強く、当時被告人の自転車の後部に左向きに坐つている河原和子の不安定な姿勢及び和子の体重がかなりあつたと思われること(被告人の司法警察員に対する供述調書記録六五四丁、川田市代の司法警察員に対する供述調書添付の河原和子の写真)を考慮すれば一層その可能性は大きくなると言わなければならない。

被告人は後部に和子が乗つていたためある程度早い速度の方が安定がよかつたので現場付近では普通に走るより少し早い程度である旨、当裁判所の検証の際陳述している(記録一、〇九四丁)し、又当公判廷でもその旨供述している(記録一、一七七丁)。

自転車で二人乗りをしている場合、速度が遅いと非常に不安定であることは日常我々の経験するところであり、被告人の自転車の速度が早かつたことについての弁明は、合理的でないとはいえない。

転落現場の手前でブレーキを離していたか、かけていた状態かについては、昭和四一年四月一九日付の調書では何等触れておらず(記録六三二丁)、同月二六日付の調書では飛び込む一〇メートル位手前から、自転車のブレーキを離して勢をつけた(記録六五六丁)とあり、同年五月二日付の調書でも同趣旨であり同年四月三〇日の実況見分調書における指示説明に於ては(記録五七・六八丁)ブレーキを離した地点は飛び込んだ地点の手前一五、二メートルであり、当裁判所の検証(第一回)の際には、その間の距離は一二、四メートルとなつており(記録六〇七丁・六一一丁)、当裁判所の検証(第二回)では転落する寸前ではブレーキはかけていなかつたと指示説明し、当公判廷(第一一回)では頂上から常にブレーキを少しずつきかしておりたと思います(記録一、一七八丁)と述べており、その供述は一定していないが、転落現場付近に至るまで被告人は兵坂峠の頂上から急坂路約五〇〇メートルをブレーキをかけて進んだことが昭和四一年四月三〇日付実況見分調書(記録五七丁)から認められるので過失で転落したとすれば現場付近でブレーキをかけていたか否かについて記憶が不明であつたとしても不合理ではなく、この供述の不一致は、故意に転落したということを隠すための言逃れにすぎないと見ることは必ずしも妥当でない。

被告人は自転車の前輪が石にのり上げてハンドルを取られたため転落したと当公判廷で供述し、又検証(第二回)の際にもその旨、供述しているので、この点につき検討するに、証人河田定也の尋問調書(記録一、一〇五丁)、被告人の昭和四一年四月二九日付供述調書(記録六三〇丁)ならびに昭和三三年一月一日当時の司法巡査作成の実況見分調書(記録三九丁)から、転落現場付近の路面状態は非舗装の拳大位の石がゴロゴロ転がつていたことが認められ、被告人の供述を裏付けるものと言いうるし、被告人が河原多津与方で直ちに石につまずいて落ちた際の転落状況を弁明しなかつたとしても過失で転落したとすれば瞬時の出来事であつて、その直後に起きた重大な結果及び被告人の異常な精神状態から検察官主張のようには転落状況を説明出来ないという方が寧ろ自然であり、被告人が検察官に対する調書に述べられているとおりの偽装の墓参りや偽装の自殺をするような狡猾な性格を有していたとすれば、寧ろ周到な弁疏をなすであろうと考えられる。

よつてこの点も被告人が故意に転落したという決定的な証拠とはなりえない。

(四)  自転車の沈んでいた位置について

転落した自転車の所在位置は、証人河田定也、同川田克己の証人尋問調書からも明らかなように岸から一、八メートルないし三メートルであつて、検察官主張のように三メートルとは確定できないし、池底の状況により転落後移動することも考えられるので、これも決定的な証拠とはなりえない。

(五)  和子が泳げたことについて

さらに検察官は、被告人が河原和子と共に、池に転落後、浮び上つてきた和子の両肩を押し沈めたことを証明するために、和子が泳げたことを主張する。和子が泳げたであろうと認められるのは前記のとおりであるが、突然転落し、且つ妊娠七カ月程の身重であり、被告人自身自転車が上からのしかかつているくらいの深さまで沈んでいる状態であること、ならびに昭和三三年一月一日作成の実況見分調書により認められる当時の和子の着衣及十尺の腹帯及手袋をはめ首に絹地のマフラーをしている状態を考慮すれば和子が自力で泳いで岸に上れる状態であつたか、又現実に泳いだかについて疑を抱かざるを得ない。

(六)  被告人の事件後の行動について

被告人が奥の池の南土堤へ上つた後の行動はほぼいずれも調書に於ても一致する(前掲被告人の自白調書)。それによると被告人は下の池に行き、そこから山の中に入り、そこを抜けて河原常代方に至つている。

この点被告人が和子を救助しなければならないと考えているなら、司法警察員作成の昭和四一年四月三〇日付実況見分調書より明らかなように付近の久保部落(記録六九丁)へ直ちに走るのが当然であるという疑問が生ずる。

しかし、右久保部落と本件池との間には相当な距離があつて、和子の救助を期待できるような時間内にたどりつけるかどうか疑わしいばかりか、事件が起つた日は昭和三三年一月一日の厳寒時であり池に和子を救助するために飛び込んだ河田定也の証人尋問調書(記録一、一〇三丁)同じく川田克己の証人尋問調書(記録一、一一二丁)河田定也の司法警察員に対する供述調書(記録一四二丁)から認められる如く同人らは救助に集まつて来てくれた人が燃してくれた火にあたつても寒くていられず飛んで帰つてしばらく正気に戻らなかつたという程の寒気の中で被告人に正常な判断が出来る余裕があつたかどうかも疑問があるばかりでなく、かりに正常な判断が出来たとしても、故意過失を問わず自己の行為から、池の中へ和子が沈んでしまつたという責任意識から正常な行動が期待できるかどうか、問題があり、この点被告人の当公判廷における弁疏(記録一、一二七丁以下)は必ずしもとるに足らないとは言えない。被告人が山へ入つたのも、被告人が責任意識ならびに寒気のため茫然自失し、首を吊ろうと考えたとしても(記録一一二八丁)それをもつて和子を故意に殺害したこととは直接には結びつかないと言うべきであり、河原常代の第七回公判調書(記録九九七丁以下)及び前掲被告人の検察官に対する供述調書(記録六八七丁以下)から認められる河原常代方へ被告人が行つてから一〇分位和子のことを黙つていた事実も前記寒気と被告人の責任意識を考慮すれば被告人の弁疏(記録一、一二九丁)は一応首肯しうるし況んや、単にその事実をもつて被告人の行為が故意に行われたという有力な証拠とは言い難い。

その後証拠上明らかとは言い難いが河原多津与の供述(第七回公判調書中同人の供述部分記録一、〇〇九丁以下)、被告人の検察官に対する供述(記録六八九丁)から、和子の死体が家に運ばれて来られた後、死体を良く見なかつた事実もやはり、故意か過失かを決める有力な証拠とは言いがたい。

被告人が和子のところに墓参した事実は被告人の検察官に対する供述調書(記録六九三丁)河原多津与の供述(第七回公判調書中同人の供述部分記録一、〇二〇丁)等の証拠から認められるが、これは和子に申訳けないことをしたという気持と、他の人に疑られたくないためである(記録六六二丁、六九三丁)と被告人の自供調書に述べられているが偽装のための墓参りと見るのは、前記の起訴猶予となつた際の警察の取調も既に終つている段階であつて、やや無理と思われる。

更に二月中旬に行つたと認められる被告人の自殺未遂(被告人の検察官に対する供述調書記録六九四丁第七回公判調書中河原多津与の供述部分記録一、〇二一丁)をもつて皆の疑いをはらすための狂言自殺と見ることは、まず第一にそのままやつて偽装する必要がないということ、と第二に服用したブロバリンの量は致死量までは至らぬまでも相当多量であつたと思料されることから、問題がある。もつとも錠数については昭和四一年四月一九日付の被告人の司法警察員に対する調書では百錠と睡眠薬粉末二包くらい同月二六日付調書では五〇錠入りの半分(二五錠)及粉末二包、同年五月七日付検察官の調書では五〇錠入りの半分と粉末二包、戸田亨の昭和四一年四月一九日付司法警察員に対する供述調書(記録三三六丁)及び同人の五月一一日付検察官に対する供述調書(記録三二三丁)には一〇錠くらいと異なつているが、被告人を診察した医師駒越春男の司法警察員に対する供述調書から、同医師は昭和三三年二月一四日午後一時ころ往診意識半分あり半ば昏睡の状態であつて、前一三日の夜服毒したらしいとし、その量はブロバリン六グラム、トンプク五包で被告人の飲んだ量はブロバリン七、五グラムであると認めた事実が認められる(記録三七四丁)こと及び山本克己の検察官に対する供述調書(記録三九三丁以下)に添付のブロバリンの説明書から判断すると六グラムに相当するブロバリンの錠数は一錠当り〇・一グラムであるから六〇錠位、と認められること、同医師の供述によると被告人は服用の翌日午後一時に至るも半ば昏睡状能であつたこと(記録三七四丁)及び山本克己の検察官に対する昭和四一年五月一八日付供述調書から五〇錠入りのブロバリン錠は発売されていないこと、及び被告人の母景山幾美の同年四月一九日付司法巡査に対する供述調書から被告人の看病に一週間位要したこと(記録二八一丁)がそれぞれ認められるので被告人の服用したブロバリン錠数は五、六〇錠と推測される。

とすると被告人は多少生に対する未練は感じていたかも分らないが、少くとも医学的知識のないものにとつて、右錠数は致死の可能性を有していると考えられる。したがつて犯行を隠すための狂言自殺であるとするのは妥当ではなく本件故意行為を立証するものとも解しえられない。

(七)  犯行の動機があるとの点について

この点の当裁判所の見解はすでは前記六の(一)において述べたとおりであつて、故意の犯行を認めさせるには足りないと考える。

八  結論

以上詳述したように、本件は有罪の認定をした山下智恵子事件とは異つて、被告人の供述以外には故意、過失を判断する決め手となるべき証拠がなく、その被告人の供述にして虚偽自白をする誘因が認められるうえ、その動機において又犯行の態様に関する供述部分において、その真実性を疑わしめる諸点が認められ、他面において過失を主張する被告人の供述もこれを全く信用しえないものとして排斥しえないので、本件を殺人罪として有罪の認定をするには合理的な疑があると解さざるをえない。よつて、本件については犯罪の証明がないものとして刑事訴訟法三三六条に従つて無罪の言渡をする。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官 西尾政義 岡次郎 佐々木一彦)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例